左營舊城-見城計劃

見城巡礼

民国74年(1985年)、内政部が高雄市左営地域の鳳山県旧城を一級古蹟と認定しました。民国95年(2006年)に文化資産保存法が修正されたため、旧城は国定古蹟となり、また民国100年(2011年)に、当時の文建会(現在の文化部)が元西自助新村の中の西門段城壁を国定古蹟の範囲に含めました。旧城は城と堀が完全な状態で残されており、また城の付属の建物〔外堀、鎮福社(日本でいう小さな寺)、拱辰井(井戸)、門神泥塑(門番の役目をする神様の像)]もある重要な文化資産となりました。

/ 鳳山県旧城 /

別名左営旧城の鳳山県旧城は台湾高雄市左営区にあります。清朝統治時代に左営区は鳳山県の下に所属したため、鳳山県城とも呼ばれています。左営旧城は台湾の古跡の中でも比較的損傷が少なく、保存面積が最も広い古跡です。この古跡エリアは先史時代、清朝統治時代、日本統治時代、戦後中華民国国民政府など様々な時期を経て、様々な遺跡が残っています。左営旧城は東門、北門、西門、南門と城内エリアがあります。

/ 東門 /

東門、または「鳳儀門」(フォイーメン)と呼ばれています。東門から東南の方面にある鳳山丘陵を見ると、まるで飛んで来る鳳凰に見えることから、中国語では「有鳳來儀」と言います。(鳳凰が飛んで来るという意味です。鳳凰は中華文化の中で、縁起のいいものとされており、運勢が上がり、全ての物事が順調にいくという象徴です。)東門を出て新城北門までの間に、現在では「双城古道」と呼ばれる道があります。ここは当時、人々の行き来や、商売が行われていたり、懐かしい風情がありました。左営の人々は凹子底(アオズーディー)にある農地で働く際には東門を通るので、「東門腳」(ドンメンジャー)とも呼ばれています。
城門の内側の通行口は大きく、外側のは小さいのは、敵が入ってきにくい構造にしたためです。城門の上は9つの「雉堞」(ジュデイー、敵から身を守るために作られた壁のこと)があり、雉堞と雉堞の間に空いている隙間は「箭孔」(ジエンコウ、鉄砲で敵を攻撃できるための隙間)、雉堞に空いている小さな穴は「窺孔」(クイコウ、敵の所在地を確認するための穴)と呼ばれています。また、東門の堀は曹公圳の灌漑水道で、「亀頭涵圳」(グイトウハンズ)と呼ばれています。「六角船形」(リウジャオチュアンシン)橋脚は水がうまく通れるように設計されました。城壁の下には排水施設があり、「水関」(シュイグアン)と呼ばれ,そこから三本の花崗岩の長い石があり、敵がここから城内に入るのを防いでいます。

/ 北門 /

北門はまた「拱辰門(ゴンチャンメン)」と呼ばれています。北極星の旧称は「北辰(ベイチャン)」,拱辰は「政(まつりごと)を為すは徳を以ってす。譬(たと)えば北辰の其の所に居りて、衆星の之を共(むか)ふが如し。」という意味があります。この北門は、台湾にある古城壁の中で、唯一門の両側の壁の上に一組の門神があることです。門神の材料は海産の巻貝の一種である螺の貝灰で、それを元に、塗料で黒い線と絵が描かれています。塗料は剥がれている部分もありますが、依然として荘厳で生気に満ちています。北門は正門であり台南府城から視察に来た官員たちが北門から入城していたため、荘厳な門であるように見せるためと言われています。

/ 南門 /

南門はまた「啟文門(チーウェンメン)」と呼ばれています。古くから南の方に文運(勉学の運)が考えられており、「文人(学問に励む人)の道を開く」という意味があります。大正9年(1919年)に縦貫道路(左営大路)を建てる際、城の両側にある城壁は取り壊され、環状交差点となりました。現在では周りにあるそれぞれの道路から南門を見ることができます。

/ 城內エリア /

約100年に渡る旧城城内の変化により、当時の賑やかさを目の当たりにすることはできません。しかし、微かにその繁栄の歴史を感じることはできます。現在位置を特定できる寺社は興隆寺、天后宮、關帝廟、慈濟宮、廣濟宮、火神廟、先農壇、開彰聖王廟です。これらは約100年の歴史の中で消失したり、城外への移転をさせられたことが調査によって判明しました。
高雄市指定遺跡の「左営旧城遺跡」は亀山の西南辺りに位置し、面積は約三千坪があります。民国93年(2004年)に建設予定だった4棟の15階建てマンションの周辺に、約5千年前の先史時代・歴史時代、2つの地層があり、遺跡の産物が眠っているということが考古学者・劉益昌教授の団体による試掘調査(遺跡の有無などの調査)によって分かりました。